伊勢型紙の歴史のあらましを起源・その後の歴史・江戸時代・明治以降・戦後と現状に分けてご説明します。
型染めは奈良時代前期に大陸から日本に伝わり、江戸時代には小紋染めなどが広く行われたといわれています。
染色用具である型紙・伊勢型紙の起源は、史実上確固たる史料・伝承がないため、明確ではありませんが、いくつかの伝説・伝承があります。
・神亀年間(724~728・奈良時代)に「孫七」という人が型紙業を始めたという説。
・現在の鈴鹿市寺家町にある子安観音寺の不断桜の虫食い葉を見て面白く思った久太夫という人物が、虫食い葉を紙に当てて彫ったという説もあります。子安観音寺は奈良時代(天平20年・西暦748年)に創立されたと伝えられ、この四季を通じて花をつける不断桜は室町時代の連歌師宗長が「花といえば葉さへ冬なき桜哉」とうたっていることからも、有名であったと思われます。
・また戦国寺代(室町末期)萩原中納言という公卿が京都から子安観音寺にのがれ、その門前で富貴絵という一種の切り紙細工をみやげものとして売ったという説。 これは萩原なる人物が歴史上実在しないところから否定的とされてきましたが、僧友禅が草木染をこの地ではじめたという説などと相まって、この時代における京都との強い結びつきを示唆させるものではあります。
型売株仲間について書かれた「型売共年数年暦扣(ひかえ)帳」(かつて型紙問屋の寺尾家蔵・但しこれは後世になって記された史料とのことです。)には、延暦年間(西暦782年~806年・奈良時代~平安時代)に「白子(しろこ)地方に型売り四人あり」と記されているそうです。
しかし、この頃(奈良時代)の日本の衣服の装飾は主に織りによるもの(紋織物)であり、また同時代に行われていた型染めは、蝋纈(ろうけち)や摺絵など木型を使用するもので、日本の型染め自体の起源も木型を使ったものと言われています。実際、正倉院宝物の染織品の模様染め技法として有名な三纈(さんけち)すなわち蝋纈(ろうけち)・夾纈(きょうけち)・纐纈(こうけち)のうち蝋纈と夾纈は木製の型を使用するものです(纐纈は絞り染め)。さらに、型紙を使った型紙染めの最古の遺品が源義経(西暦1159年~1189年・鎌倉時代)のものとされていることを考えると、奈良時代または平安時代の白子に伊勢型紙を販売する業者が存在したかは疑わしいかもしれません。伊勢型紙はおろか型紙を使う型染め自体の起源(時代)について史実から導き出すことは難しいようです。
ただ、そのかなり後の時代、少なくとも室町時代末期には、狩野吉信(1552~1640)が職人尽絵(埼玉県・喜多院蔵)に型紙を使用して糊置きをする染職人を描いていることからも、型紙はこの時代に確実に存在し広く用いられていたと考えられます。
先の「型売共年数年暦扣帳」には安土桃山時代の型売りの数が127人とされているようですが なぜ当時の都である京都より遠く離れた白子が染色用の型紙生産地となったかも定説はありません。天平20年(西暦748年・奈良時代)には子安観音寺が創建され、平安時代の史料に「白子浜」の記載があり後の室町時代には港として繁栄したようで、この2つは今も確かに存在し、当地の歴史を感じさせてくれます。
型紙は江戸時代(西暦1603年以降)に伊勢の白子・寺家(じけ)両村を中心に飛躍的に発展をとげ、いわゆる「伊勢型紙」「白子型」としての地位を確立していきます。
江戸時代に入って社会が安定しましたが、白子村と寺家村(ともに現在の鈴鹿市)の領地が元和五年(西暦1619年) 徳川御三家のひとつ紀州藩に編入されます。そこでいちはやく型売りの「株仲間」という組合的な組織が形成されます。紀州藩の保護下で独占的でしかも全国的な規模による型紙販売の組織を形成することで、型彫り・型売行商を飛躍的に発達させました。
・宝暦三年(1753)紀州藩公認の「株仲問」の制度が確立し、その数を本株127軒 枝株12軒と固定した。
・紀州藩からは・出稼ぎ鑑札・通り切手・絵符等が交付された。
(通り切手というのは、荷を一種の公用あつかいせよという証明書と通行手形をかねそなえたようなもので、このため連送費は一船のほぼ半額以下であった。また出稼鑑札は、木札で表に氏名とその者が販売できる地域を明確に記入したものである。)
このように業者数の固定や、価格の均一化を行い、値崩れ・乱売・技術の低下や流出を防ぎ、特異な行商体系を発展させていきました。
白子港が江戸に木綿を積み出す商業港として栄えたことや、奈良・京都など内陸へ海産物を運ぶ交通の要所であったことも、全国的な型紙販売の組織を形成できた要因と推測できます。
江戸時代の江戸小紋と伊勢型紙の関わりについては、別ページに記載しています。→江戸小紋と伊勢型紙について
明治初期には京都でも広瀬治助により「型友禅」が考案され、京小紋も生産されました。
明治4年の廃藩置県とその後の統合により、白子村・寺家村も今の三重県に属することになりました。同時期に「株仲間」の組織が解体されましたが、実質的には強力な専売体制がその後も続きます。後になって彫りの技術は京都など全国各地に分散しましたが、地紙(渋紙)の生産は現在でも100%白子・寺家地区で行われています。
かつては、地紙製造の際に、生紙は湿度の少ない所で自然に半年ほど放置して「枯らし」ていましたが、明治10年頃北村治兵衛氏によって、密閉された室での煙で枯らす煙煙乾燥としての「室枯し」(室入燻煙法)が考案されました。
明治30年(西暦1897年)に白子型紙業組合(後の伊勢型紙業連合組合)が作られ、明治42年(西暦1909年)の白子村と寺家村の型売商人は40人で、型彫職人198人、型地紙製造17人と資料に残っているようです。
大正10年(西暦1921年)には、型紙に絹の網を漆で貼り付けて補強する紗張り(しゃばり)という技法が考案され、「糸入れ」技法に替わるものになりました。
昭和20年(西暦1945年)に第二次世界大戦が終わり、国の復興にともない伊勢型紙の業界も甦って、昭和30年(西暦1955年)の資料では販売業者50、彫刻業者350、地紙業者20ということです。同じ年に、南部芳松・六谷紀久男・児玉博・中島秀吉・中村勇二郎・城ノロみゑ(以上敬称略)の方々が重要無形文化財技術保持者(通称人間国宝)に認定されました。
しかし近年は、生活様式の変化によるきもの離れの傾向には著しいものがあり、また手彫りに代わる写真型(シルクスクリーン型)の技術が確立されたため、伊勢型紙の生産は激減しました。(余談ではありますが、ごく最近ではキモノの染色にもインクジェットプリンターが用いられることがあります。)
彫刻の職人を始め携わる人々が減少・高齢化しているのが実情です。
それまで業種別に組織されていた「伊勢型紙地紙製造組合」「日本注染型紙協同組合」「伊勢染型紙販売組合」が昭和57年(西暦1982年)に統一されて「伊勢形紙協同組合」が設立されます。
昭和58年(西暦1983年)には通産省(当時)の伝統的工芸品の指定を受け、平成3年(西暦1991年)に「伊勢型紙技術保存会」が組織されました。
近年になって、伊勢型紙の優れた彫刻技術を生かして、染色用の実用型紙ではなく鑑賞用の美術作品を創ろうという動きも起こりました。
彫型画会という団体が昭和50年に設立され、展覧会・教室を開催するなどの活動を行っておられます。
有名な日展(日本美術展覧会)の美術工芸部門に入選された方もおられます。
また、伊勢型紙のデザイン性を活かし、インテリアや小物雑貨などに取り入れた商品も発案されています。
他にも多くの資料があると思いますが、ご参考までにご紹介します。
※3. 書籍 「図録 伊勢型紙」 伊勢型紙技術保存会刊 販売について 平成27年 1200部作製。 ※当店インターネットでも販売しています。 ¥5,280(税込・送料別) A4版 173ページ。 ご注文の際には、詳細を記載しておりますので「注文方法」をお読みください。(送料や特定商取引に関する法律による表示義務事項などを記載しています。) |
※2. 「伊勢型紙」Japanese Traditional Stencil Design(美術出版社)販売について 石井コレクションと呼ばれる、実際に染色された染色型紙を資料とした書籍です。 ※当店インターネットでも販売しています。宅配便のほか、クリックポスト(一冊)での発送も可能です。送料・お支払方法の等詳細は「注文方法」をご覧ください。
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※1. 【書籍 「伊勢型紙」伊勢型紙技術保存会編 販売について】 ※販売終了しました。 平成11年 限定千部発行。 冊子郵便で発送しますので、送料は一冊の場合340円(H15年10月より)ですが、お支払い方法が代引きの場合は、運送便使用のため、送料は「注文方法」をご覧ください。
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独立行政法人 情報処理推進機構(IPA)「教育用画像素材集」
※キーワードから探す→「伊勢型紙」で。(教育のために学校や教育機関、ご家庭にて無償で利用できる、とのことです。)
→2020年3月31日終了しました。
国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)
サイエンスポータル
「技の彩」~伝統工芸に息づく色~ (7)柿渋色・伊勢型紙(三重)
(「技の彩」には江戸小紋の番組も設けられています。)