伊勢型紙は染色用具として、きもの(江戸小紋・京友禅等)や手拭いなどの型染めに用いられてきました。文部科学大臣により重要無形文化財として、また経済産業大臣により日本の伝統的工芸品に指定されています。
概略・歴史・資料・彫刻技法・渋紙作り・人間国宝・TV番組・所感の項目を設けてご説明します。
(このページからリンクしている各詳細ページにも詳しく記載しています。)
※「伊勢型紙」または「伊勢形紙」と表記されています。
(どちらも同じく使用されています。例えば文部科学省の重要無形文化財の認定には「伊勢型紙」、経済産業省の伝統的工芸品は「伊勢形紙」です。)
概略 歴史 彫刻技法 渋紙 人間国宝 TV番組 所感 趣味として
伊勢型紙は染色用具で、キモノなどの型染めに用いる型紙のひとつです。渋紙(型地紙)を、熟練の職人が手彫りの技法で文様・絵柄を彫り抜いたものです。
古来より伊勢の地で作られ型商人によって全国に販売されていたため、伊勢型紙の名(他に「伊勢型」「白子型」等)で呼ばれてきました。
起源は諸説あり定かではありませんが、千年以上の歴史があるともいわれています。
昭和58年に伝統的工芸品に指定されました。
特徴は、薄い和紙を柿渋で数枚貼り合わせた彫刻・染色に適した地紙を使用することと、熟錬の職人により手彫りで作られることにあります。彫刻の技法には引き彫り(縞彫り)・突彫り・道具彫り・錐(きり)彫りの4技法があり、それぞれ異なる刃物(彫刻刀)を用いて特徴ある型紙を生みだします。
江戸小紋や京友禅・手拭いなどの染色を裏方として支えてきましたが、型彫り職人の卓越した技術は素晴らしく、その精緻な文様・デザインには、人の手の無限の可能性を感じさせるものがあります。
近年は生活様式の変化にともなってキモノの需要が減り、伊勢型紙の生産量とそれに携わる人間も激減しました。
しかしその状況下でも、優れた彫刻の技術を残そうとする団体活動が行われたり、作家活動により美術工芸品として日展に入選するなど高い評価を得たり、展示会・メディアに取り上げられることで少しずつ知名度も上がりました。一般の個人の方でも(染色用ではなく)切り絵として趣味で楽しまれる流れもございます。
※詳しくは→型染めは奈良時代前期に大陸から日本に伝わり、江戸時代には小紋染めなどが広く行われたといわれています。
伊勢型紙の起源は、史実上確固たる史料・伝承がないため、明確ではありませんが、いくつかの伝説・伝承があります。
・神亀年間(724~728・奈良時代)に「孫七」という人が型紙業を始めたという説。
・現在の鈴鹿市寺家町にある子安観音寺の不断桜の虫食い葉を見て面白く思った久太夫という人物が、虫食い葉を紙に当てて彫ったという説。
・戦国寺代に京都から逃れてきた公卿が子安観音寺の門前で富貴絵という一種の切り紙細工をみやげものとして売ったという説。
型売株仲間について書かれた「型売共年数年暦扣(ひかえ)帳」には、延暦年間に「白子(しろこ)地方に型売り四人あり」と記されているそうです。
しかし、型紙を使った型紙染めの最古の遺品が源義経(西暦1159年~1189年・鎌倉時代)のものとされていることを考えると、奈良時代または平安時代の白子に伊勢型紙を販売する業者が存在したかは疑わしいかもしれません。伊勢型紙の起源を史実から導き出すことは難しいようです。
ただ、少なくとも室町時代末期には、「職人尽絵」に型紙を使用して糊置きをする染職人を描かれていることから、型紙はこの時代に確実に存在し広く用いられていたと考えられます。
型紙は江戸時代に伊勢の白子(しろこ)・寺家(じけ)両村を中心に飛躍的に発展をとげ、「伊勢型紙」「白子型」としての地位を確立していきます。
江戸時代に入って社会が安定しましたが、白子村と寺家村の領地が紀州藩に編入されます。そこでいちはやく型売りの「株仲間」という組合的な組織が形成され、紀州藩の保護下で独占的で全国的な規模の販売組織となることで、型彫り・型売行商が発達し、業者数の固定や価格の均一化により値崩れ・乱売・技術の低下や流出を防ぐ行商体系を発展させました。
この時代に武士が着用した裃(かみしも)に、定め小紋と呼ばれる藩ごとに使用を決められた小紋柄を染めるために、伊勢型紙は多く用いられました。
明治初期には京都でも「型友禅」が考案され、京小紋も生産されました。
明治4年の廃藩置県とその後の統合により、白子村・寺家村が三重県に属することになり、同時期に「株仲間」の組織が解体されましたが、実質的には強力な専売体制がその後も続きます。後になって彫りの技術は京都など全国各地に分散しましたが、型地紙(渋紙)の生産は現在でも100%白子・寺家地区で行われています。
明治以降、「室枯し」(室入燻煙法)や紗張り(しゃばり)という技法が考案されました。
第二次世界大戦が終わり、国の復興にともない衣料の需要が大きくなり、戦時中には途絶えていた伊勢型紙の業界も一旦甦えりましたが その後は、生活様式の変化によるきもの離れ等により、伊勢型紙の生産量は激減しました。
彫刻の職人を始め伊勢型紙に携わる人々が減少・高齢化しているのが実情です。
昭和58年には通産省(当時)の伝統的工芸品の指定を受け、平成3年に「伊勢型紙技術保存会」が組織されました。
優れた彫刻技術を生かし美術作品を創ろうという動きが起こり、彫型画会という団体が昭和50年に設立され、展覧会・教室を開催するなどの活動を行っておられます。
※当社(株式会社大杉型紙工業)では、逸早く伊勢型紙インテリアを販売する店舗を設けました。日展入選作家の作品を始め、完成度の高いインテリア・贈答用商品として伊勢型紙の額装作品をご提供し続けています。
他にも多くの資料があると思いますが、ご参考まで。
縞彫は、定規に小刀をあて、手前に引きながら縞柄を彫ります。細いものでは1センチ幅に最高11本もの縞を彫ることもあり、極度に集中力を要する技法です。縞彫りまたは、引彫りと呼ばれます。
「引彫」は本来、上記の縞彫りの技法を指す言葉ですが、最近では小刀を引いて彫る技法を広く引彫と呼びます。
縞柄や彫り残しの少ない型紙は、そのままでは型付け(染色)時に縞状の紙が動きやすく不安定なので、固定するために「糸入れ」という加工が施されます。その場合の型地紙は、あらかじめ、2枚に剥がし易いように作られており、彫り上がった後、2枚に剥がし、その間に、縞に対して横方向または、斜めに生糸(絹糸)を何本も挟み、適当な粘りのある柿渋で元の一枚に張り合わせます。細かく彫られた柄の2枚の紙を1枚に貼り合わせるので、非常に手間と熟練が必要とされます。
穴板の上に地紙を置き、刃先を鋭く尖らせた小刀を地紙に垂直に突き立て上下に動かしながら前方へ押すように、またもう一方の手で彫り口の調子をとりながら彫り進みます。
彫り口(彫り上がった線)に独特の微妙な揺れがあり、いかにも手彫りという「あじわい」と「あたたかさ」が感じられます。
彫る前に先ず、花びら・扇・菱形・角・米粒・幾何学文様などの形の刃物(単に「道具」と呼びます)を作り、その道具を用いて、ひと突きでそれらの形を彫り抜く技法です。
いかに良い道具を作るかが重要な作業となります。
複雑な文様が均一に彫り上がり、またその文様(形)の多様性が特徴で、江戸後期から発展しました。小紋柄には欠かす事のできない技法で、江戸小紋では俗にゴットリとも呼ばれます。
半円筒形の刃物(錐)を地紙に垂直に立て、回転させることにより一つの丸い穴をあけ、その連続または大小の穴の組み合わせだけで柄を作って行きます。小紋柄では最も古い技法といわれ、鮫・行儀・通し・アラレ等の柄がこの技法で作られます。
細かいものでは、1cm四方に100個程の穴を彫ったものもあると言われます。同じサイズの錐を用いても微妙な力加減などで穴の大きさが変わってしまうため、出来上りの柄が単純なだけにかえって難しく、非常に集中力を要する技法と言われます。
※詳しくは→和紙を柿渋で貼り合わせ加工した後に天日乾燥と室枯らしを繰り返して作る、型染めに適した紙です。渋紙または型地紙と呼ばれます。
手漉き和紙を規格の寸法に裁断し(紙断ち)、3枚或いは4枚を一組とし、厚みムラのできないように、繊維方向をタテ、ヨコ交互に組みます。(法造り)
斜めにたてかけた「紙つけ板」に、刷毛を用いて柿渋で和紙3枚一組にして貼り合わせます。一組が貼り合わせ終ったら角を折り印をつけ、その上に同じようにして数十組を重ねていきます。
紙つけが終わったあと2~3日寝かせ、柿渋が十分浸透するのを待ちます。出来た紙を生紙と呼びます。柿渋で湿った状態です。
藁で作った刷毛を用い、紙張り板に生紙を張っていきます。小さなサイズの紙は、片面に2枚(2組)、大きなものは1枚(1組)張ります。
紙張り板ごと天日に干します。晴れた日なら2~3時間で乾燥します。乾燥後に板から剥がします。天日干し中には雨に当たらないようにします。
紙のゴミ(混入したもの、表面に付着したもの)を包丁を使って取り除き、選別します。
選別した紙を燻煙室(室:ムロ)に入れ、7~10日昼夜を通して和木(松、杉、檜)の大鋸屑(おがくず)で燻します。
枯らすことにより、さらに伸縮が少ない紙になります。また燻煙のヤニにより補強されます。
明治10年頃この「室枯らし」が考案されるまでは、湿度の低い所で半年ほど放置して自然に枯らしていました。
室から出した紙を1~2時間、柿渋に浸し、再度板に張り付けます。
天日乾燥から室枯らしをもう一度繰り返します。 紙つけからここまで40日以上かかります。
出来上がった紙を選別後、2、3カ月~1年間、寸法を安定させるために寝かせます。
※詳しくは→昭和30年に、六谷紀久男(錐彫り)・児玉博(縞彫り)・南部芳松(突彫り)・中島秀吉(道具彫り)・中村勇二郎(道具彫り)・城之口みゑ(糸入れ)(以上敬称略)の6名の方々が重要無形文化財(人間国宝)に指定されました。残念ながら、現在ご存命の方はおられません。
平成5年には伊勢型紙技術保存会が伊勢型紙の重要無形文化財保持団体として認定され、現在も活動されています。
※詳しくは→ 「ディスカバリーチャンネル」にて放映された番組『明日への扉』の動画をご紹介。伊勢型紙職人の那須恵子さんが型紙作りに励む日々をご覧ください。
伊勢型紙製作の手順も解りやすく説明されています。
伊勢型紙は本来、染色のための型紙にすぎず、染め上げられた美しいきものは称賛を受けますが、それを生み出すための一道具が人々の目に触れる機会は稀です。
伊勢型紙の型地紙は手漉きの和紙を手作業で柿渋を用いて張り合わせ1枚1枚丁寧に作られます。
その紙を用いて、型彫師が卓越した技と時間を費やして精緻な文様を彫り上げたものが伊勢型紙です。
伊勢型紙を用いる江戸小紋などの型染め自体も技術を要すると言われますが、高い技術が発揮された型紙があってこそ、繊細な美しさを表現することができます。
古くから日本に伝わる素晴らしい材料と高い技術が凝縮した型紙の価値と文化が、今後も継続されていきますように。
※写真も交えた所感全文→染色のためではなく、伊勢型紙を切り絵・彫刻作品制作の趣味として、気軽にお楽しみいただくためのご紹介です。
もし「やっぱり染め型を彫りたい」「染めてみたい」と思われた場合にも、一つの入口としてお役に立てる…かもしれません。
伊勢型紙の道具と渋紙を使って楽しむ切り絵
※詳しくは→